行人日記@はてな

昼の休みに今日見る雲も 頼りない雲 流れ雲

「落下の解剖学」

話題の「落下の解剖学」を見てきました。以下、ネタバレ沢山ありです。

この映画は、フランスの雪深い高地にある山荘が舞台です。山荘では夫と妻と幼い息子の3人家族が暮らしていますが、ある日、夫が山荘から落下して死亡します。

事故、自殺、他殺のそれぞれの線から捜査がなされ、最終的に検察は夫を殺害したとして妻を起訴し、以降は法定劇に移ります。

ネタバレが過ぎるのであまり詳しくは書きませんが、この事件(事故?)の特徴は、決め手となる物的証拠がなく、かつ人里離れた山荘での出来事であるため、目撃証言などもないということです。

このため、検察、被告人とその弁護団、そして証人たちは、断片的な状況証拠に基づく想像、推測そして仮説により、それぞれが思い描く結論を主張します。

また、夫婦間の事件と疑われていることから、夫婦関係に焦点が当てられ、夫婦間のわだかまり、一方が圧倒的に優位な関係、性的なすれ違いなど、とてもプライベートな部分が、法廷で容赦なく抉られ公にされます。

人間は神様ではないので、真実を見通すことなどできず、検察と被告人の双方の立場から、あらゆる可能性を追求し、審議をし尽くすことで公正さを保つ必要があります。

しかし、そのためには大変な時間と労力が掛かり、検察や弁護士は職業だからまだしも、被告人やその家族に掛かる負担は非常に大きく、失う尊厳、受ける傷は計り知れません。

この社会では、事件に対して何らかの結論を出さなくてはならないため、やむを得ないこととは思います。ただし、被告人が無罪だったならば、大変残酷な仕打ちをすることとなります。

また、上に書いたように間接的な状況証拠しかない中であっても、何らかの結論付けをしなくてはならないという社会のあり方に、危うさを感じました。

映画を見終わった後、「本当にこれしかやりようが無いのか?」という気分に捕らわれました。そして正直、自分はこんな裁判沙汰の当事者となることなく一生を終えたい、と思いました。

(追記)

昨日は、「自分がもし無実の容疑でこの妻のように起訴されたらたまったものじゃない。怖い」と感じたため、被告人である妻寄りの立場でこの映画を見ていました。

ですが1日目経ってあらためて思うと、妻は亡くなった夫に対して結構酷いことをしていたのかもしれない・・と思うようになりました。

まず、妻がベストセラー作家として成功している一方、夫は小説家志望であるものの編集者から相手にもされないという、圧倒的な立場の違いがあります。夫は、妻が自分に対して抱いている優越感を、言葉や態度から感じ取っていたのかもしれません。

また、幼い息子が視覚障害を負った交通事故について、妻は夫に責任があるとして「当初は恨んでいたが、すぐに恨まなくなった」と裁判で話していますが、実際には夫は、妻と息子に対して負い目を抱き続けながら生活していたのかもしれません。

さらに、妻は夫と夜の生活が無くなったことから、「精神衛生のため」として不倫を複数回重ね、自ら不倫の事実を夫に伝えたと話しています。その理由を「隠すと夫が傷付くから」と話していますが、納得できる説明ではありません。

夫は、妻との生活は耐えがたいものであり、精神的に疲弊し追い詰められていたのかもしれません。

もし警察の捜査で、夫の死が自殺であると判断されていたなら、妻は自身の言動を省みて自責の念に駆られていたのかもしれません。

しかし実際には、妻は夫の死が自殺だったとして自身の容疑を晴らすことに必死です。ではなぜ夫が自殺に至ったのか、妻には、夫が受けていた苦しみや屈辱に思いを馳せる余裕はなかったのではないでしょうか。

ここに書いたのは全て私の想像に過ぎませんが、でももしそうだとしたら、亡くなった夫はあまりにも浮かばれないな、と思いました。


雨の中、市川市のニッケコルトンプラザに行って見てきました。

(備忘)
ニッケコルトンプラザではスクリーン7で見ました。座席はI列でしたが、若干スクリーンが遠く感じたのでG列かH列がちょうど良さそうに思いました。

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